まだゴールデンウィークなはず。
今日は、午前に少しばかりお仕事を進めた。
何も進んでいないと、少し負い目を感じることになるから。
そして、本日は少しばかりウィンドウショッピングへ向かった。
場所はとある家電量販店である。
少しお金に余裕が出てきたので、手元のカメラをアップグレードするのも悪くないな、という考えが過っていたからだ。
候補はいくつかあったが、こうゆうのはやはり店頭で現物を触ってから総合的に評価するのが筋であると思っている。
候補の中の一つ、Fujifilm X-T4。
ボディ内手ぶれ補正と、X-Tシリーズお馴染みのX-Trans CMOSイメージセンサには魅力がある。
僕は手ぶれ補正内蔵のレンズはあまり持っていない。
だから、ボディ内手ぶれ補正はあると嬉しかったりする。無くても良いけど。
レンズの写りを気にして選ぶと、そのどれにも手ぶれ補正機能が載っていないのだ。
X-Trans CMOSも構造とシカケはとても合理的である。
一般的に用いられるベイヤー配列のCMOSイメージセンサも含め、大半のイメージセンサの画素の配置はG2B1R1となっており、Gの感度が高い。
これの配置に多少の"乱雑さ"を持たせることで、画像処理エンジンで行われるデモザイク処理の結果がナチュラルになる、というもの。
現状のイメージセンサは、Sigmaの一部のカメラに搭載されているFoveonセンサや3CCDを除きデモザイク処理が必須である。
これより詳しい話は半導体工学と画像処理工学の分野のお話になるので割愛するが、要は拡大した時ののっぺり感が出にくい反面、エッジの再現度と高感度耐性が犠牲になる。
ただし、個人的にあのデザインは 「常用には使いづらい」と感じる。
僕はフィルムカメラのフォルムが好みなのもあるし、機能美が光るスタイルは大好物なのだが、機材として見た時、やはりあのデザインは非効率である。
もう少しグリップが深ければな…。と思う。
握る力が不要になるのは、疲れなくて良いのだ。
Nikon Z50で余計に実感する。
デザイン重視の機材選びと機能面重視の機材選びは分けて考えるべきである。
候補の中のもう二つ目は, Nikon D6。
ニコンが一眼レフ機の製造を終了すると発表してから最後のボディ。
機能面、画質、操作感全て問題ない。
問題があるとすれば価格と重量だろうか。
候補の中の三つ目、Nikon Z7II。
割と最近出たミラーレス機である。
僕はZ50を所有しているのだが、やはりどうにも”ミラーレスの絵”はしっくりこない。
(いや。正確には全く問題のない像なのだが、100%自分が欲しいと思った画か?と問われると…。)
あとEVF(電子ビューファインダー)がいくら自然になったとはいえ、OVF(光学ビューファインダー)には敵わない感じがするのだ。
ほんの僅かのラグとピクセル感が気になって仕方がないのだ。(動体撮影時以外は問題ない)
Z50の完成度がとにかく高いので、アップグレードの候補としては薄いが、一応考えてはいる。
あと、機材感が欲しいなと思っているので、スリムになったミラーレスはその点で不利である。
見てくれで選んだボディのラインナップは既に所有しているし満足している。
OLYMPUS OM-Dも所有していたが、あれもデザインが好みだったのと手ぶれ補正の強さに惹かれたから購入に踏み切ったものである。
ふむ、考えているとキリがなくなってくる。
とにかく堅牢さと機能面重視で選ぶと、Nikonのゴツい類の製品は選択肢として強い。
CanonやFujifilmは、どうにも"作った感"が消せない写りなので、少し躊躇う。
最近の製品は絵いじりが精巧な故に、画がいじられていることに撮影者自身が気付きにくくなってしまった。
偽物の画が嫌いな僕にとって、SNS映え向きなカメラはどうしても選択肢から外れる。
こうしてまたもや流行りに乗れない哀れな人間が誕生するのだった。
SonyやPanasonicも最近はデキが良いと感じるが、動画性能はZ50で満足してしまっているし…。という感じ。
あと、Nikon以外だと現状のレンズ資産が活かせない。
所有欲を満たせるモデルはどれだろう…。
まぁそんなこんなで色々と実機を触り、感触を頭にインプットしたところでいいお時間になってきた。
夜ご飯はお肉。
まだゴールデンウィークだろ。
多少豪遊しても許されるはず。
ちなみに、某ステーキ店ゴールド会員なのでソフトドリンクをつけられる。
油物を摂取した後は決まって自宅近所のカフェに寄る。
マスターとももう顔馴染みだ。
写真はあたたかいココア。
ココアは糖質と脂質の豊富な飲み物だ。
意外と勘違いされがちだが、糖質と脂質を意図的に減らすのは体に悪い。
体内の消化系の循環を回すのに脂質は必要であり、これが不足すれば人体は炭水化物を内臓脂肪や皮下脂肪として蓄えようとする。
痩せたい、と思うヒトほどそこを疎かにしがちなのである。
(これに関しては、太る=脂肪=脂質といった間違った認識を広めたTVに罪があると思っている。)
ココアを楽しみながら、色々と考えていた。
自分は漠然とした、薄くしか見えない道をなんとなく歩んでいるだけで、その先の目標など立てようがないのかもしれない、といった、哲学的なことである。
答えはないのかもしれない。
岡田斗司夫氏も同じような感触に達しているようである。
結局はその場その場全ての行動が分岐であり、その分岐は運という確率的な成分がトリガーでしかない、という考え方。
なりたいものになれる、というのは一部の幸運なヒトが語る結果論であって、ほとんどのヒトはそうではない、という考えである。
とりあえず誰かが喜んでくれれば、それをやり続けるのが力になる。
確かに、僕が今現在取り組んでいるお仕事も全てキッカケは ”よくわからない突然の縁” であったし、例えばカメラマンを依頼された時も、ナレーションを依頼された時も、これを仕事にする気はないな…といった「ブラックリスト的な排除思考」は割と明確に自分の中にあったのである。
そのブラックリストに載っておらず偶然発生した道こそ、自分のやるべきことなのではないだろうか、という考え方もできる。
なんだかんだでお仕事の成果も喜んでいただいているみたいだし、それが能力というものなのかもしれない。
とはいえ、それが「自分が人生を賭けてやりたいことか」と問われると疑問な気もするし、難しい話ではある。
この考え方が一理あるとすれば、「能力を活かす」ということ自体がどこか第三者依存の行動な訳で…。
この辺りで考えるのをやめた。
ここで帰宅してゲームタイム。
学院祭 第三幕。
このサーチェンのセリフには激しく同意できた。
僕は歴史は「屑」だと考えている。
なぜなら、現状の社会を構築した全ては人類の歴史であって、現状残る理不尽な社会システムすら、歴史の残渣に過ぎない、と思っているからである。
基本的には歴史は反面教師にすべきであって、そこから良い学びを得ることはないだろうと、歴史は多数が悲劇の歴史であろうと、そう信じている。
”歴史の良い部分は真似すれば良い”などと甘く見ている類のヒトは、まずエゴイストだと思っておく。
生きている以上、終わることのない課題。
これにどう落とし前をつけてくれるか。
考えても仕方ないのかもしれないが…。
まぁ、僕は答えのない疑問を考えるのは好きだ。
考えれば考えるほど、現代には残酷な結論が導き出される問題が溢れていて、精神が壊れていくんだけどね。
銀行に並ぶのかな…。
アルハイゼンのセリフ。
僕がいくつかのコネクションを切断し、俗世からの距離を置く方向に動いた理由と一致する。
こんなにも「タイムリー」なお話もあるものなのだな。
ゲーム終了。
さて、そろそろ某会社が購入してくれた機材が届く頃だろうか。
追跡番号もわからないので、受け取りに失敗すると面倒臭いということは容易に想像できる。
うち、物流系の営業所が近いので、朝早くに荷物が到着することが多い。
便利なんだけど…。眠い時は叩き起こされるか、起きれても到着するまで何もせず目は開けておかないといけないので、かなりつらい。
さっさと寝よう。
おやすみ。