孤独か、享受か。

さて。

 

いつものように、社会を生きるための作業を進める日々。

感情を伴わない、存在することのない庭園を歩むステップ。

 

 

マシン油の快楽を得た観葉植物に目をやると、そこにはひとつの回転体炭素系生物の姿。

 

Marasmius Oreades

 

最近の湿度の高さにより根腐れを起こした植物の根に、寄り添うように傘を広げているその姿。

なるほど。

キミは得たか。

回転体炭素系生物は語りかける。

荒んでも、キミはまだキミ。と。

 

 

僕は、物質的にも精神的にも一生の孤独を約束されている。

そのようにスコアリングされ、人生を謳歌しようとすれば忽ち世の避暑地と言えよう温いパーティが目の前から忽然と姿を消し、「それでは。」とメタなグルーヴの空から降る電磁波から身を隠せば、そこには"自由"の二文字は投影されない。

 

今はまだよい。

微かにでも社会関係というものを感じ取ることができる。

だが周囲は各々知能を持っている存在。

いずれそれぞれの選ぶ道に、己の執念に従い、振り返らず移動を開始するだろう。

 

突如としてSTATUS ACKを返さなくなる者。

社会の定めた腐った約束手形に敗北し、その胸に墓守を得る者。

近々アユタヤを出発予定のLOTUS号に搭乗し、舷窓から僕を見るよと誓う者。

 

それらに僕という存在は捨てられ、裏切られ、そうして時間とともに「僕」という製品が完成されていくことが、約束されている。

…いや、それらを「敵」と認定し、己から遠ざけるような形態を持つ自分という種の道に抗うことはできない、と言う方がおそらく正しい。

 

社会は僕を「バカ」と呼ぶだろう。

 

 

さて。ゲームのお話へ。

 

宵宮伝説任務。

 

やはり、僕がゲームに強く求めているのは音楽と世界設定、映像の親和だ。

このゲームの音楽を聴いていると、僕が音楽という世界に入った理由を思い出させてくれるような感覚に陥る。

 

ここからは僕のつまらぬたわごとだと思ってもらって構わない。

 

「音で表現する」ことの基本的な意味を理解していないヒトは案外多い。

最近ではネットが十分に発達し、民衆の隅々まで簡単に情報が行き渡るようになった。

それ故、芸術というものの概念を大きく変動させたのがネットという存在なのもまた事実。

音楽理論という大きくまた忌々しい権威が、間違った形で民衆の隅々まで滞りなく配達され、まるで教科書を読んでいるかの如くまたそれを民衆も受け入れている。

 

芸術を型にはめるな。とは、言うのは簡単である。

ではそれを確たる"感覚"として得られる場面を、僕なりにいくつか列挙しよう。

 

最近はVOCALOIDが一般に広く使用されるようになった。

これは革新的な技術ではあり、新しい音楽のジャンルを作り上げた、日本の誇るべき技術である。

しかし、それと同時に、音楽の"クラシック化"を加速させてしまった。

VOCALOIDというものはヒトの限界を超えることが可能なツールである。

それ故に、"音楽理論にのっとった音楽の限界"を超えるツールとしての誤用(よく言えば新しい文化)が普遍的用法となった。

言い換えれば、キテレツな旋律、キテレツな歌詞、そうゆうものを乱用しなければ、「音楽」として見られもしないようなリスナー領域を作り上げ、生態系を大きく変貌させてしまった。

音楽の"内容"を見られることが少なくなってしまった。

これは古くから作曲者ならではのエゴではあるものの、僕はそこから、"音楽の敗北"を身に感じることになる。

 

先述したとおり、「音で表現する」ということの絶対的正解はこの世に存在しないと思っている。

だがしかし、現状のこの音楽理論の過信と奇抜な表現のブームは、音楽を音遊びでもない、「ふんわりとした何か」に変えてしまった。

そこにゴールが設定されていないのだ。

作曲者自身から、脳内の情景というもののアウトプットが薄くなり、今消えようとしている。

(無論、すべてに当てはまるわけではない。しかし、濃度が増していると感じる。)

 

それは別の視点でも感じることができる。

音楽理論の過信とネットから得る「成功体験」の安売りにより、作曲方法の固定化が生じている。

例えば、"コードからメロディをつくろう"という「方法」は今やネット上に蔓延り、それしかしらない世代すらも登場している。

(個人的な話。仕事では、人材育成において、そこの矯正にはかなり労力を要するのだ。)

彼らの作った音楽は確かに音楽であるし、個々のセンスを評価する権利も僕にはないが、「コードから起こしたメロディ」というのは案外簡単に見抜くことができるのだ。

単調な場合もあるし、またはメロディラインに無理やり動きを付けようとしていたり、またブルーノートなども無理やり混ぜ込んでみたりして、無駄にジャジーになっていたりする。

ようは己のしる技術を詰め込むオナニーと化している。

そして、モチーフはなにかと訪ねても、本人すらも中身が無いことに聞かれて初めて気付く。

音楽が、表現手段ではなく、「一音一音を気持ちよく調整する作業」と化しているのだ。

ただいたずらにコードを動かしまくったり、キーを変えまくったり。

表現としては枯れたものであるし、素晴らしい。

ジャンルによっても、そうでなくては、というものも存在するのは事実である。

ただ、これは意図的に敷いたノートかと言われれば、答えらえるヒトは少なくなっているだろう。

まるで、資料を作っているかのようなのだ。

 

 

僕は、8歳だか9歳だかで現状の持っている"音"に表現の限界を感じ、初めてソフトウェア音源を購入した。

新鮮な経験だったことを今でも覚えている。

当時、作曲機材として使用していたのはRoland SC-88Pro, SC-D70, Yamaha MU80などハードウェアが多かったのだ。

PCもディスプレイ一体型のCPUはCore2かなにかのPCで、プラグインを自由に挿せるほど計算リソースがある時代ではなかった。

今ではそのソフトウェア音源にすら限界を感じ、生録を多用するようになった。

音の調和にばかり気をとられがちな近代作曲家であるが、リズム、音色…それらすべても音楽を構成する大切な要素であると強く思う。

さらには、そこに含まれる人間らしさ、ランダム性や不完全さすらも、聴感上「デジタル」を感じさせないよう適度に混ぜ込むというのが僕の信念である。

だからこそ、VOCALOIDというものを受け付けない部分があるし、またDAWに時間ドメインでスナップされた完璧な発音のノートを気持ち悪いと感じる部分がある。

 

小学生時代、オリジナル楽曲のコンテストに提出して最優秀賞をもらった曲をひとつ貼っておこう。

とはいっても、当時の音源は手元に残っておらず(実家には演奏ビデオがあるかもしれない)、リメイクだが。

soundcloud.com

世界観を表現するのは、無理やりに詰め込んだノートであるべきではなく、音色と、ノートの遷移(微分量)と、リズムである。

 

 

情景を思い浮かべると"音楽"が降ってくるというのは、産まれ持ってのみ得ることができる才能ではないと思っている。

(個人的な話。寝ようと布団に入ってしばらくすると脳内に"音楽"が生成され、ガバッと立ち上がりPCの電源を入れ、DAWを立ち上げ徹夜コース…という経験をしたことのある類のヒトは、おそらく仲間になれる。)

これは、一番形容として近しい言葉を借りれば"センス"であり、それは経験により磨くことができるはずなのである。

自分に十分センスがあるとは思っていない。

現在進行形の、日常こそが研磨の作業なのである。

そのような経験をすべてスキップし、理論に敗北したアーティストの行く先は、時代の流れとともに来るそれが是よという声に後押しされるか、はたまたヒトの知恵の解像度が本来あるべき量に修正され、「そのような時代もあった」と消え去るかは、今は誰も知る由はない。

いずれにせよ、誰かが死ななければならない。

 

 

話が膨らんだが、僕は原神に限らずゲーム音楽というものに、そのような個人的な信念に忠実な何かを感じ取ることができるから、好きなのである。

当たり前と言えば、当たり前である。

必ずモチーフや情景や映像があり、それとマッチした音楽でなければ意味がないし、それを作ることができなければお仕事にならないのである。

 

 

 

上記のようなことを、原神の大きめな任務をやるたびに考えてしまう。

そして、自分の原点を思い出させ、同時に僕の腐った現状をより強く認識させ、涙が止まらなくなる。

このようなものが創りたかったのだと、それが世界に誕生したことがうれしいような、なんだか悔しいような。

大きな世界には大きな感情を動かす作用がある。

だがしかし、大きな世界を創造するのには、僕ひとりぽっちの力では限界があるのもまた痛いほど知っている。

 

一度きりの人生。

自分がやりたいことは何か。

今、やりたいことはできているのか。

やるためには何をすべきなのか。

あきらめなければならないものは何か。

そうゆうことを、考えぬときはない。

 

 

人生、そう簡単にやりたいことができるよう、うまくはできていないものだな。

訳が分からなくなってくる。

 

もうねよう。

おやすみ。