そういえば、もう5月…。
時が過ぎるのは早い。
なんだかんだで、これといってなにか進んだ気はしないのに、時間だけはすごくはやく進んでいる気がする。
今後はずっと1年が短く感じていくばかりだろう。
これを、ジャネーの法則という。
今日はこれといって何もない一日。
いつもと同じように、地道に作業を進めていく。
急ぐことは無い。
いや、僕は"急ぐことができない"のだ。
今日は近所のスーパーで安かったスイカをいただいた。
うん、あまい。
今年は天候もあって、よいスイカが採れる時期も例年より早まっているみたいだ。
昔はスイカ半玉も普通に食べられたんだけど、今は無理かも。
色々な面で、劣化を感じる今日この頃。
そういえば、原神がピザハットとコラボするのは明日から。
ピザ食べまくるか…。
最近、精神とはなにか、人生とはなにか、幸せとはなにか、ふと考える機会が圧倒的に多くなった。
メンタルがやられるときほど、無理に正解を求めようとしてしまう。
動画にあるように、「自分軸」をもつこと、「自分の明確なビジョン」に沿って生きることは、昔から心がけている。
ヒトに限らず、そもそも動物というものは幸せに生きることが、最低ラインの目的として存在する。
つまり、「幸せ」を感じられていない状態は、ヒトとしての最低ラインに立てていないことを意味する。
はやい話、お金が無くても”幸せ”ならば勝ちなのである。
現代は、働くことこそが正義でヒトの役に立つことが幸せだとか、結婚して子供をつくれば幸せだろう、とか、あまりにも薄い幸せを強要されがちなのである。
まず、自分が幸せになること。それがすべてにおいてファーストステップなのである。
自分が幸せでなければ、どこか他人にも当たる部分があったり、不要な迷惑をかける場面も出てくるだろう。
しかも、そうゆう部分は自分では認知し難いから厄介である。
幸せそうなオーラとでも言おうか。
そうゆうのは、他人目線では結構ハッキリと目測できるものなのである。
「幸せ」を、単純に「楽しいことをできる時間」と一般化するならば、他人の意見とか、指針とか、言葉というものはノイズである。
ヒトによって楽しいことが違うし、思想も、何をもって良しとするか悪いとするかも違うから、当然のこと。
だからこそ、他人、つまり家族やパートナー、会社関係のヒトなど含む、「政治的関係なヒト」に迎合することは、幸福追求において論外だということは自明なのである。
よくヒトは、「社会人はこうであるべき」とか、「人間である以上~」とか、「日本人として~」とか、そうゆう根拠のない道を示したがるものである。
そうゆうノイズを排除してやっと、「自分のビジョン」を持つことができる。
自分勝手になれ、というわけではない。
他人を不快にさせるのは、他人からみて「自分から幸せを奪う要素」として認識されることになり、必ずしも都合が良いとはいえない。
最初から”自分が嫌になる領域”に近づかなければ、もしくは離れれば、自分はそのような社会関係から認識されなくなり、「自分勝手だ」と思われることもなかろう。
僕がSNSやいくつかのコミュニティから脱出したのも、そこに通ずる部分がある。
「自分の生き方は、大多数のヒトとはマッチできない」
それに尽きる。
自分と他人の生活の流れの差は大きな摩擦となり、それを放置することは、自分の"摩耗"になると、そう判断したのだ。
自分が仕事の作業をしている中、タイムラインの世界では他人が楽しく旅行をしていたり、はたまた、自分がやりたいが外的要因によりできないことをやっているヒトが居たり、そうゆう"認識"をしてしまうことが、自分のメンタルを崩壊させている要因のひとつだと理解したわけだ。
そうなってくると、行動を実行したのはよいが、なにを自分の"癒し"にすればよいのか。
考える必要が出てきているように思える。
楽しく生きるために、今どんな判断ができるか。
それを強く意識して、行動するに尽きるのかもしれない。
明日は一体どんな変化を作り出せるのだろうか。
さて、
おやすみ。